彼女はそれらをレジに持ってくる。レジでは店員が元気のいいあれで迎える。彼女は、裏返され、値札を読み取られる本たちを眺めている。ふとよぎるのは自分の財布事情についてだが、他のどの娯楽よりも、本を買うことは、彼女にとって金銭効率がいい。レジの機械にお代が表示され、彼女は古ぼけたビニル製の赤い星柄の財布を取り出し──彼女はその財布を5年以上持ち続けている。物持ちがいい女性である──、何枚かのお札を出して支払いを行う。彼女が受け取る黄色いビニルに入れられた書物はかなり大きく、その重みで彼女の指に食い込む。彼女はそれを携えて、愛車ダイハツのミラに乗り込む。長いこと、助手席に誰かを乗せたことはない。そこにバッグを置き、足元に本を置く。彼女の運転技術はあれである。狭い駐車場もすいすいとこなし、彼女は店を去っていく。寄り道したとしても、いつもの喫茶店「4CATS」である。急ぐことはあるまい。
彼女がこの後どこへ向かうのか、我々は把握している。それを追う前に、彼女が買った本から、彼女について何か語ることができるだろうか?
試みてみよう。
幸い、ここに、彼女が買った本のあれがある。それをもとに、彼女について語ってみよう。
まず、彼女がなぜ『良心の自由と子どもたち』と『ゆとり教育から個性浪費社会へ』と、『子どもたちはなぜキレるのか』を購入したかについては、現在彼女が英語塾で講師として働いていることから、想像に難くない。しかも、彼女がただふたつ持っている免許状──普通車運転免許状と中学・高等学校一種教員免許状──を知っていれば、言わずもがなであろう。英語塾は中型のもので、市内に3つの教場を持っている。彼女は大学時代からそこで様々な業務に携わってきた。簡単な事務処理、教材作成、アシスタント・ティーチャー。そして、そう時を待たず、彼女はその中型英語塾で教えはじめた。彼女の授業はあれではなかったが、不評でもなかった。ただ塾へ来て時間を潰す必要があった子どもたちにとってはちょうどいいあれだった。ほんの一握りの子どもたちは、彼女の授業を受けることで、少しだけ、成績を上げた。そのことで彼女は少なからず感謝された。
彼女は大学に通いながらそうして教え、教育関係の講義を受け、教育実習に行き、教員採用試験を受けるかどうかを悩み続けた。結局、彼女は教員採用試験を受けなかった。どうしようどうしようと思いながら25回ほど──ちなみにこの回数は、実際に過ぎた日数よりも少ない──寝て起きたら、申し込み期日が過ぎていただけのことだ。
ということで、彼女はそのまま、中型の英語塾で講師を続けている。
そのときのあれからだろうか。『決断力』などという本を買ったのは。
そして、彼女は今も迷っているのだろう。企業で働くのか、それとも公務員となって教えるのか。私立で教えるという手もあるが・・・・・・。そんな彼女の迷いは、『ドキュメント「超」サラリーマン』を読んで、何か得るところがあるのだろうか?
彼女は『ザ・スタンド』の1巻から4巻を持ってはいない。なのに、なぜスティーブン・キングの『ザ・スタンド5』を買ったのかは、おそらく数ヶ月前にオンライン書店Aで買ったキングの『小説作法』が答えだろう。キングは『小説作法』の中で、大胆に『ザ・スタンド』についての製作秘話を語っている。『ザ・スタンド』の第5巻、というかあらゆる翻訳物の最終巻末には、訳者のあれが付されているもので、そこではやはり、『小説作法』について触れているのだった。
彼女が密かにあれを目指していることについて、知っている人はそう多くはいない。
その厄介な夢想と、彼女の友人が多くないことは深いあれがありそうである。
彼女は書き始めるとなりふりかまっていられないタイプである。
本格的に書くモードになってしまうと、一切の外界との接触を断ちたくなるのである。
彼女は大学時代にさまざまな嘘を作り、執筆のための時間をあれした。
彼女の教育実習は小学校から高校までそれぞれ通ったために実際の3倍の時間が必要だったし──少なくとも中・高の免許しかもたない彼女が小学校に行く必要はないし、中・高両方の免許を取るにしても中学校ひとつ実習に行っておけば十分である──、介護体験は場所が地元に変更となり、さらに5倍の期間が必要だった。親戚が定期的に死に、そのたびに誰かが心労で倒れ、彼女はそのたび実家に戻った。水道破裂騒ぎは実際にあったことだが、その後始末に本当に2週間もかかったのかどうか。
ともかく彼女はそうして嘘をつきまくり、一人になれる時間を作り出してはものを書いた。そのうちのいくつかは新人賞を取り損ねた、といえるくらいのところまでは昇っていった。けれど、それだけだった。
けれどこれらのことは、大学時代までのこと。
教員採用試験を見逃し卒業し、塾の講師にとどまってからは、きちんと社会的なことには参加しようと考えている。
塾長に「教員採用試験には落ちた」と言ったとき、めずらしく胸が痛んだ。自分はほんとうは、教師になりたかったのかもしれない、と彼女は感じた。同時に様々なことを混乱のように思ったようだ。嘘をつくことについてもそうだし、自分が書いてきたものに何のあれもなかったとしたら今の私はどこに依って立っているのだろう、というようなことなどを。そしてそれらの思考の軌跡はすべて雑然とブログにぶちまけてある。彼女はそれを書き、過去(ログ)に沈め、まだ整理はついていない。
ずっと水をやっていなかった植物が花を咲かせないように、彼女の社交術は足りないことだらけで、打ち解けあえるあれも周囲にはいなかった。
彼女は嘘をつくことを悪いことだと思っていなかったわけだ。フィクションは最良の現実で、それを否定するところにこの世がある、それがノン・フィクションだ、というようなことをあれの時にはよく口走った。
男のための化粧や異性との酒の飲み方やつきあい方なども、知らなかった。
だから、彼女が『人は見た目が9割』や、『悪の対話術』や『コミュニケーション力』や『会話を楽しむ』『<対話>のない社会』『これをダジャレで言えますか?』といった本を買い漁ってもなんら不思議はない。
むしろそのあれが出てきた分だけよしとしよう。
彼女が今好んで読んでいるのは海外文学である。『ヴァインランド』や『奇跡も語るものがいなければ』『ナンバー9ドリーム』などは楽しむために買ったのだろうし、『サリンジャーをつかまえて』も、そのあれで買ったものだろう。
『翻訳家の仕事』は、村上春樹の影響であろうか。彼女はこの頃、集中的に村上春樹の翻訳したものを読んでいる。今日、彼女が『ワールズ・エンド』を買って帰らなかったのは、財布事情からか、それとも既に読んだことがあったのか?(しかし、彼女は蔵書派のはずである。)ただ単に見落としただけだろうか。
彼女は魚喃キリコと内田春菊のあれを好んで読むようである。なので、『あなたの世間体』や『仔猫のスープ』、『南瓜とマヨネーズ』は、まだ読んでいなかったものなのだろう。体験のなさゆえに身につまされるようなことは少ないが、その読書体験が彼女にとってはかけがえのないあれとなっている。しかし、実際にあれすることと比べれば・・・・・・。
読書とは、いかに無益な行為なのだろうか。
そんな彼女が小説家になろうとしていることなど、これをお読みのあなたには信じられないことだろう。
無益な行為のために、彼女に何が書けるというのか。
まずは彼女の私生活から改めなければならないだろうが、彼女にそんなアドバイスをしてくれる者は、まだ、あれしていない。
彼女は今日も、『経験を盗め』などという本を買って帰る。
『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』を買ったのは、昔書いた彼女の小説の中に、原爆について扱おうとした身の程知らずのものがあったからだろう。まだ引きずっているのだ。
『現代たばこ戦争』についても同じことだ。昔書いた小説の取材を、今ごろになってやっているのだ。
そんな後付けの取材に嫌気が差してきているのだろうか?『取材学』などという本を手に取ったのは。それで何かが変わるといいのだが。しかし、私にはわからない。物語は必ずしもノン・フィクションからのみやってくるものだろうか?
『物語フィリピンの歴史』と、『物語アイルランドの歴史』からは、何を学び取るつもりだろう?歴史という物語を感じようというのだろうか?あれの歴史もろくに学ばずに?
『ロボット入門』、これについては、この頃彼女が構想している小説の参考文献かと思われる。彼女の頭の中までは、さすがの私も覗けない。彼女は何度も自分のつむぎだすくず文字に嫌悪をしめしているが、そのたび新しい文字を生み出している。だからブログは定期的にあれされる。小説のネタも生れることを止まってはいないようだ。
『iPhone衝撃のビジネスモデル』については、彼女があれのファンだということから説明がつく。彼女の愛用しているのはiBookG4で、そろそろ新しいMacBookに新調しようかどうか、考えている。ちょうど新しいOSも出る頃だ。
彼女の愛用iPodは2GBのnanoで、あと3年はもちそうだ。彼女の携帯電話会社aが、iPhoneを採用することがあるのだろうか?
彼女の名前は、青井優子。
ある有名女優と似通った名前をもつ。(一文字、目の上のたん子ぶになっているが。そして、そのことがなければ、彼女と私の出会いもなかったであろう。)
けれども彼女は彼女として、生きていく。
そうだ。そうでなければ。(2-1or25-1)
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私の名前は、青井優子。
ある有名女優と似通った名前をもつ。
誰の名前がどうであれ、私は私として、生きていく。
その通り。そうでなければ。